SSブログ

山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』 [読書メモ]

山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』(文春新書839)、文藝春秋、2011年。

マタイの八福をはじめ、4福音書だけでなくその他の箇所からもケセン語訳で御言葉を紹介し、聖書の信仰を独特に語る38話。
4福音書以外では、創世記2:16~17、11:4、ローマ3:28、ヤコブ2:24~26。

漢語を使わないで表現し、聖書特有の用語も避け、世の人々に具体的に通じる訳語を考え、辞書的意味や語源はほぼ無批判に取り入れる。

以下は、ケセン語訳でおもしろかったところではなく、解説で目にとまったところ。

(愛については、前回の記事「「愛」は自己本位的」に記した。)


●善悪の知識の木の実
「善悪の知識」とは、何が善で何が悪かということを判断する力のこと。ことの善悪を判断するとき人は、「俺は絶対正しい!」と信じて、絶対者になってしまう。神に対して人間の側が絶対に正しいなどと言うことはできず、また、人との間で自分は絶対に正しいと信じて突き進むと、その先に滅びが待っている。すべての戦争は双方とも正義を振りかざす旗のもとに行われ、正義と正義がぶつかり合うところに破滅がある。

しかし、人間は正しさに忠実であろうとするほど、自分の信じる正義この、抜け道のない悲惨から人間を助けるのが神であり、そこに救いがある。
(p.34~37あたりを参考にかなり言い換えた)



●幸せと幸いの違い
幸いは、自己中心的な都合の良さを喜ぶのであって、運まかせの好都合という側面がある。一方、幸せは人と人との交わりにおける温かくほのぼのとしたうれしさである。


●マタイ5:4
親しい人が亡くなって、その野辺送りで泣いている人を、イエスはそばに引き寄せて、しっかりと抱きしめてくれる。ここに幸せがある。


●マタイ5:5「柔和な人」
支配者の搾取に抵抗せず言われるままに従う人が、為政者からみれば「柔和な人」であり、そのような財産もない人に、イエスは相続財産をくださる。


●マタイ5:8「神を見る」
顔と顔を合わせ、目と目を合わせて微笑みかわす幸せをいただく。「かたじけなくも神さまにお目通りがかなう」とでもいうべきだ。


●「裁くな」
「裁くな」とは「人の善し悪しを言うな」ということである。人間はどうしても、自分のものさしで他人を測る。自分のものさし以外のものさしがあるかも知れないということを考えたくもない。

人間は常に自己修正の余地を自分の中に持っている必要がある。絶対に正しい人などどこにもいないからである。

これこそがエデンの園で「善悪を知る木」の実を食べた人間の姿であった。人が自分の信じる正義に徹底的に忠実であろうとすれば必ず陥ってしまう救いようのない悲惨な結末、それを聖書は「闇」と呼んでいる。この「闇」から抜け出すにはどうしたらいいのか。それが、「敵であっても大事にしろ」「人の善し悪しを言うな」である。
(p.128-129)



●治療と治癒
治療と治癒は全く異なる。生活習慣の改善を指導し、薬を与え、手術をし、病気が平癒するように手を尽くす。これが治療である。しかし、いくら治療しても治癒しない場合がある。テラペウオー(治療)することはイアオマイ(治癒)させるための手段であり、イアオマイさせることはテラペウオーすることの目的であって、両者は同じではない。

「テラペウオーする」は「治療する・いやす」の両義を持ち得るが、しかしその過去形「テラペウオーした」は、治療に成功した場合にだけ「いやした」と訳せるのであって、失敗したら「いやした」とは訳せない。しかし、失敗したとしても「治療した」とは訳せる。
(p.175~176)





この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。