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牧師職の危険と困難 [伝道]

ラインホールド・ニーバー「キリスト教的牧師職の危険と困難」
in 梶原寿訳『義と憐れみ――祈りと説教』(新教出版社、1975年)、pp.224-239。

(以前に行ったこの本の紹介記事

1953.3.29 ユニオン神学校で牧師職についての会議のための講演。


これを読んで、私なりの関心から学んだこと、考えさせられたことのまとめ


1.ただ啓示によって理解される秘義
 信仰は、知的努力によって理解することができない、理解可能性の向こう側にある世界、すなわち、秘義を認める。
 キリストを理解し見出すのは、瞑想によって無意識的な深みに至りついに神的レベルに達するのでもなく、神との出会いによってである。

2.高慢の罪の悔い改め
 ところで私たちには、自分がよい人間、賢い者、理解力のある者と見られたい思いがある。これは高慢の罪であり、神に対してもこの罪をもっている。
 この高慢の罪を悔い改めなければ、神と出会えない。神と出会う時には、全人格的な悔い改めが起きている。

3.牧師の務めの危機
 そこで、牧師の務めにおける危機の一つは、自分が神について知っているとよそおってしまうことである。
 教会員から牧師は神について何でも知っていると見られ、神に対しても人格的な出会いを抜きにして、知的に理解しようとしてしまう。

4.福音宣教における困難
 私たちは、現代社会に福音を宣べ伝える上で、二つの困難に直面している。

1)経済的あるいは知的に安定した生活をしている人々は、人生が打ち砕かれなければならないなどとは考えない。福音はそのような人々のためにこそあることを語らなければならないという実践的困難。

2)福音は合理的でも科学的でもない。また、福音はただ歴史的啓示によってのみ知りうる。神を知らない世はこのような福音を受け入れられないという知的困難。

 したがって、私たちの課題は、信仰の歴史的、人格的、超越的な独自性と生命力を守りつつ、科学的、形而上学的、合理主義的世界に対して福音を宣べ伝えることである。



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