エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ [聖書と釈義]
1.
(a) マルコ15:34の Ελωι Ελωι λεμα σαβαχθανι には、さまざまな異読がある。その分析については、たとえば、蛭沼寿雄『新約本文学演習 マルコ福音書・マタイ福音書』(蛭沼寿雄著作選集第1巻)、新教出版社、2011年、p.220-221。
(b) しかし、それはともかく、イエスは何語で叫んだかと考えると、詩編22:2に基づいて、そのままヘブライ語で叫んだかも知れないし、それを日常語であったアラム語に言い換えて叫んだかもしれない。
(c) 当時のユダヤ人の言語状況を考えると、アラム語とヘブライ語は大変似通った言語であったので、人々がそれぞれを完全に区別して使っていたとは考えられず、むしろ、かなり「ちゃんぽん」にしゃべっていたのかもしれない。(田川建三『新約聖書 訳と註1 マルコ福音書/マタイ福音書』、作品社、2008年、p.474前後)
(d) さらに、十字架刑に処せられて、しかも、神から見捨てられるという状況の中での叫び声なのだから、発音が不明瞭であってもおかしくない。(このあたりも田川が指摘している)
(e) そのような中で、マルコはアラム語で記し、マタイは半分アラム語、半分ヘブライ語で記したのである。
2.
(a) さて、そのようなイエスの叫び声を「エリヤを呼んでいる」と聞いた人がいる。このときイエスのそばにいた人たちにはユダヤ人もいただろうが、一番近くにいたのは死刑の執行に直接携わっていたローマの兵士たちではないだろうか。
(b) 36節の「酸いぶどう酒」もローマの下級兵士の飲み物だったという。したがって、35節で「エリヤを呼んでいる」と聞いた人も、36節で走り寄った「ある者」も、どちらもローマの兵士であったと考えるのが妥当である。
(c) 彼らは、ユダヤ地方に駐屯している間にどこかで、苦しむ義人にエリヤが天から助けに来るというユダヤ人たちの間にあった民間信仰(たとえば岩波の新約聖書の当該箇所の註)の話を聞いていただろう。彼らはアラム語もヘブライ語も知らないが、なんだかわからないイエスの叫び声を聞いた時に、あの「エリヤ」のことかと思ったに違いない。(この辺もだいぶ田川に拠っている)
(d) とすると、「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」というのは、民間信仰で言われていることが本当かどうかちょっと様子を見てやろうぜということである。これは、イエスの十字架の苦痛に対する同情(ある註解書)などではなく、ローマの兵士たちによる興味本位か相変わらずの嘲りである。
(マタイでは、酸いぶどう酒を飲ませようとした人とは別な人が「待て」と言っているので、酸いぶどう酒を飲ませようとしたのは少しばかりの同情であったのだろう。)
(e) つまり35~36節はローマ兵による嘲笑の記事であり、そうすると、39節で「本当に、この人は神の子だった」と吐露する百人隊長と対照的に描かれている。(この2者の対照は、たとえばヒュー・アンダーソンのニューセンチュリー聖書注解、邦訳423頁でも指摘されている)
同じローマの兵隊でも、一方はイエスを嘲笑し、一方はこの人を神の子と認めるのである。
(f) 結局、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」のさまざまな異読の状況は、これをエリヤに聞き間違えたローマ兵による嘲笑を経由して、百人隊長の「神の子」告白を浮かび上がらせている。
(a) マルコ15:34の Ελωι Ελωι λεμα σαβαχθανι には、さまざまな異読がある。その分析については、たとえば、蛭沼寿雄『新約本文学演習 マルコ福音書・マタイ福音書』(蛭沼寿雄著作選集第1巻)、新教出版社、2011年、p.220-221。
(b) しかし、それはともかく、イエスは何語で叫んだかと考えると、詩編22:2に基づいて、そのままヘブライ語で叫んだかも知れないし、それを日常語であったアラム語に言い換えて叫んだかもしれない。
(c) 当時のユダヤ人の言語状況を考えると、アラム語とヘブライ語は大変似通った言語であったので、人々がそれぞれを完全に区別して使っていたとは考えられず、むしろ、かなり「ちゃんぽん」にしゃべっていたのかもしれない。(田川建三『新約聖書 訳と註1 マルコ福音書/マタイ福音書』、作品社、2008年、p.474前後)
(d) さらに、十字架刑に処せられて、しかも、神から見捨てられるという状況の中での叫び声なのだから、発音が不明瞭であってもおかしくない。(このあたりも田川が指摘している)
(e) そのような中で、マルコはアラム語で記し、マタイは半分アラム語、半分ヘブライ語で記したのである。
2.
(a) さて、そのようなイエスの叫び声を「エリヤを呼んでいる」と聞いた人がいる。このときイエスのそばにいた人たちにはユダヤ人もいただろうが、一番近くにいたのは死刑の執行に直接携わっていたローマの兵士たちではないだろうか。
(b) 36節の「酸いぶどう酒」もローマの下級兵士の飲み物だったという。したがって、35節で「エリヤを呼んでいる」と聞いた人も、36節で走り寄った「ある者」も、どちらもローマの兵士であったと考えるのが妥当である。
(c) 彼らは、ユダヤ地方に駐屯している間にどこかで、苦しむ義人にエリヤが天から助けに来るというユダヤ人たちの間にあった民間信仰(たとえば岩波の新約聖書の当該箇所の註)の話を聞いていただろう。彼らはアラム語もヘブライ語も知らないが、なんだかわからないイエスの叫び声を聞いた時に、あの「エリヤ」のことかと思ったに違いない。(この辺もだいぶ田川に拠っている)
(d) とすると、「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」というのは、民間信仰で言われていることが本当かどうかちょっと様子を見てやろうぜということである。これは、イエスの十字架の苦痛に対する同情(ある註解書)などではなく、ローマの兵士たちによる興味本位か相変わらずの嘲りである。
(マタイでは、酸いぶどう酒を飲ませようとした人とは別な人が「待て」と言っているので、酸いぶどう酒を飲ませようとしたのは少しばかりの同情であったのだろう。)
(e) つまり35~36節はローマ兵による嘲笑の記事であり、そうすると、39節で「本当に、この人は神の子だった」と吐露する百人隊長と対照的に描かれている。(この2者の対照は、たとえばヒュー・アンダーソンのニューセンチュリー聖書注解、邦訳423頁でも指摘されている)
同じローマの兵隊でも、一方はイエスを嘲笑し、一方はこの人を神の子と認めるのである。
(f) 結局、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」のさまざまな異読の状況は、これをエリヤに聞き間違えたローマ兵による嘲笑を経由して、百人隊長の「神の子」告白を浮かび上がらせている。
2013-03-28 23:00
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