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R.ニーバーについて [読書メモ]

ラインホールド・ニーバーについてのあれこれ抜き書きや、私なりの言い換え。

ここで参考にした本たち主に、ホーダーン(布施濤雄訳)、『現代キリスト教神学入門』、日本基督教団出版局、1969年。の第7章「アメリカ新正統主義――ラインホルド・ニーバー」から。

■ ニーバーの父
 ニーバーの父は、毎朝の家庭礼拝で、旧約聖書をヘブル語で、新約聖書をギリシア語で読んだ。
(『現代キリスト教思想叢書8』(白水社、1974年)の大木英夫による「解説」、p.493)

■ ネオ・オーソドクシー
 伝統的に楽観主義的な自由主義神学(リベラリズム)の支配的なアメリカにあって、人間の罪(原罪)を重視する人間観に立って歴史の中の「悪」の問題を鋭く説くニーバーの立場はネオ・オーソドクシーとよばれ、また、彼の思想は、保守的なキリスト教信者からは、ラディカルすぎると危険視さえもされていた。
(武田清子訳『光の子と闇の子』(聖学院大学出版会、1994年)の訳者による「あとがき」、p.204-205。)

■ 「神話」について
 人と神、有限と無限との関係は、理性とか論理でもって言いあらわすことはできない。神はこの世を超越しているゆえに、どのように表現してもそれは適切ではない。しかし、かといって神は単にこの世を超越しているのではなく、この世に内在し、この世において活動しておられる。それで、神学は神について何かを語ることができるし、適切ではないとしてもこの世の論理でもってある程度は神を語ることができる。
 そのようにして神を語る場合、この世における思考形式に従って語るしかない。「神話」はそのための表現形式である。
(ホーダーン、p.219-220)

 神話は常に「真剣に、しかし文字通りにではなく」理解されなければならない。
(A.リチャードソン、J.ボーデン編『キリスト教神学事典』(教文館、2005年)の「神話」の項、p.363)

■ 人間社会の悲劇性
 ニーバーがデトロイトで牧師をしていたとき、日曜学校のクラスで「山上の教え」の話しをしていた。「他の頬をも向けよ」と話したとき、一人の少年が語り出した。彼は新聞売りをしていて、母や他の年行かぬ弟妹を養っていた。毎朝、誰が一番売れ行きの良い街角に立つかで大戦争をしていた。もし、他の頬を向けて、他の売り子に自分の受け持ちを渡してしまったら、家族を養うための収入が減ってしまうではないか。ニーバーはこの問いに対する答えを見出すことができなかった。

 社会問題は、あれかこれかという単純な形では解決されない。二つの悪の中からより小さな悪を選び取ってゆくほかない。
 道徳を絶対視して文字通りそれに従ってゆこうとする人、自分は正しいのだという立場をとることができる人は、社会的悪に対して、何ら力ある解決をしていない。

 与えられた状況の中で最善を尽くしていく中に、まったく悲劇的ではあるけれど、我々の生き方があるのではなかろうか。
(ホーダーン、p.231-232)

■ 民主主義
 民主主義は、人間は本来理性的でありしかも正しいがゆえに自らを治めることができるという立場に立っている。これはとんでもない考え方である。我々が民主主義を必要とするのは、実は、人間が罪人であるからにほかならない。民主主義は、人は正しくありえず、他人に対しても力をほしいままにしがちであり、それを阻止するために必要なのである。
(ホーダーン、p.234)

■ 「不可能の可能性」impossible possibility
 イエスは完全な倫理を教えられた(例えば、マタイ5:48)。それだからこそ、わたしたちにとっては実行不可能なもので、この世にあっては誰もそれを実行することはできない。

 理想的な社会を実現することは不可能である。自由主義が、人は本質として善であると確信に基づいて、社会の欠陥は制度を変えたり教育によって取り除くことができるのだと考えていることは、大きな誤りである。社会の不完全さのゆえに罪が生じるのではなく、罪こそ社会の不完全さの原因であり、しかも、搾取する者が消え去ったとしても、第二の搾取者が必ず現れるのである。

 しかし、イエスが教えられた倫理は、見当違いの倫理でもない。キリスト者は、歴史を越えたところにある希望を見つめる。もちろん、歴史を否定するのではなく、この歴史は完成される。人間には完成に近づけることはできないが、神が完成される。人類の歴史は、歴史の彼方における究極的な完成に向けて、悪に対する神の勝利を記録していく。

 したがって、キリスト者は、この地上に神の国が実現されるとか、完全に理想的な社会秩序が打ち立てられるということを期待していない。にもかかわらず、キリスト者は決して絶望しない。それと同時に、なし得ることはどんな小さなことでも、究極的なこの歴史の完成に重要な意味を持っていることを知っているので、キリスト者はできる範囲で行動に移せるのである。

 楽観主義でも悲観主義でもなく、その両者の間をぬって行くところにこそ福音の道がある。
(ホーダーン、pp.234-238あたり)

■ 社会との関わり方の異なるいくつかの務め
a)この世との妥協を否み、絶対的な規準によって生きて行く完全主義者。彼らもこの悪しき社会に依存してしか生活できないが、にもかかわらず、他のキリスト者に対して悪と妥協してしまっていることを認識させる役割を持っている。悔い改めを促すのが彼らの務めである。

b)キリストの求めた完全な要求を社会に対して語って行く預言者。彼らは、社会がどうしてもなさなければならない妥協に対しても、それを糾弾する。人々の罪を糾弾する彼ら自身も、その人たちと同じ罪人であるのだが、ぬぐい去ることのできない罪を焼き付けられていることに目を覚まさせることが彼らの務めである。

c)妥協を余儀なくさせられている大多数のキリスト者。彼らとて妥協は好まないが、しかし、もし妥協せずにより小さな悪のために働かないならば、より大きな悪が勝利を治めてしまう。それで、たえず神の赦しを求めつつ、複雑な状況の中でなし得る最善を実際に行ってゆく。それゆえ、妥協というのも単なる妥協ではなく、悲しみと悔い改めの心をもって、やむを得ず妥協するのである。
(ホーダーン、pp.239-241あたり)


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