SSブログ

奥田知志『助けてと言おう』その2 [読書メモ]

「助けて」と言おう.jpg奥田知志、『「助けて」と言おう』(TOMOセレクト 3.11後を生きる)、日本基督教団出版局、2012、78頁、840円。

日本基督教団西東京教区の全体研修会での講演「「助けて」と言おう――ホームレス支援から見た無縁日本」と「出会いが創る、心の絆」の二本。

以下、気になる言葉について、そのままの抜き書きだったり、わたしなりの言い換えだったり。

その1の続き。

-----

「助けて」を取り戻す
 「自己責任論」の社会は、「助けて」という一言をわたしたちから奪った。自立した人とは自己責任を取ることができ、人に助けを求めないと思い込んでしまっている。また、言いそうな人の前では、なるべく道の向こう側を通り過ぎてきた。しかし、「助けて」と言える関係を取り戻さなければならない。(p.37~41あたり)

信仰は、イエス・キリストに救いを求めることである。神に向かって「助けて」ということは信仰告白である。その時、神は働いてくださる。「助けて」と言った時が助かった日である。神の力は弱さの中に働く。(p.38、40~41、48あたり)


「助けて」と言える牧師
 牧師というのは、人を援助するのは得意な人が多いが、そんな人に限って、助けてとはなかなか言えない。人の話は二時間でも聞くが、自分のことは二分も話さない。「傾聴の技術を持っている」とか「配慮が行き届いている」とは、おおむね他者を愛する技術に関することである。しかし、愛することは得意でも、愛されることが苦手である。人から愛してもらうという学びを一切ないまま牧師になることは大変危険なことだ。(p.42~43あたり)


クリスチャンこそ示せる絆
 自己責任論社会、非常に薄っぺらな絆ということが言われている社会の中で、クリスチャンこそ示せる絆がある。それは、傷を含んだ絆だ。その打たれし傷によりて我らは癒されるという希望の十字架を今こそ示し続けなければならない。(p.55)


罪人の業
 どんな良い活動でも所詮は罪人の業である。単純に困っている人を助けるということでは済まない。その罪を引き受ける覚悟をしなければならない。(p.75~78あたり)


支援とは、罪人同士の支えあい
 子育てでは、親が子どもを育てている面とともに、子どもによって親が育てられる面もある。そのように、支援する側もその活動を通して自分のアイデンティティが与えられている。(p.72~73あたり)

 支える側と支えられる側が固定化されていく時に、人間は元気がなくなる。本来、絆とは相互性があるものであって、おたがいさまというのが絆だ。(p.17、62あたりにも)

 一方、私たちは、赦された罪人である。つまり、ホームレス支援は、赦しを必要としている罪人同士の支えあいに過ぎない。強い人が弱い人を助けているのではない。彼らもわたしも共に赦されて生きているという現実に気がついてこそ、関係を築くことができる。(p.72~73あたり)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。