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『わたしの伝道』 [読書メモ]

『わたしの伝道』日本基督教団伝道委員会(A5版)伊藤瑞男、東岡山治、西原明、石井錦一、『わたしの伝道』、日本基督教団伝道委員会(発売:日本基督教団出版局)、2010、110頁、1050円。

日本基督教団伝道委員会主催の連続伝道講演会の記録。

  伊藤瑞男 「どのような教会をつくるのか」
  東岡山治 「「天のお父様、あなたの出番です」」
  西原 明 「遣わされた地を神のまなざしで」
  石井錦一 「信徒によって育てられた」
の4講演。

このうち、西原明は1929.3.12-2009.4.18。石井錦一は1931.2.25-2016.7.4。


気になる言葉のメモ(そのままの引用だったり、わたしなりの言い換えだったり)。


求道者との対話の挑戦
 教会がある程度大きくなると、牧師一人で牧会的配慮を行き届かせることは難しい。当然、教会全体でなすべきだが、求道者に対しては、牧師がその第一の責務を負うことは普通であろう。
 その際、その求道者がなぜ礼拝に来ているのか、礼拝出席を続けてきてどのように変化しているかを知るために、対話が必要である。
 しかし、それは一種の挑戦になる。受洗しないと礼拝に来てはいけないのかと思われ、来なくなった例を何度も経験した。伝道の基本の一つは、挑戦を含めた自由な対話ができるよう努めることである。
 教会学校とその親に対しても、信仰告白や受洗へと導く挑戦が大切である。
(伊藤瑞男、p.19、22あたり)


裾野つくり
 現住陪餐会員の周りに未陪餐会員がおり、不在会員がおり、別帳会員がいる。教会員の家族もいる。教会という山は、裾野を大きくしないと、高い山にならない。教会学校も裾野つくりの大きな業である。
(伊藤瑞男、p.22あたり)


教会暦
 聖書日課は教会暦に沿って作られている。聖書日課に従った説教がなされ続けるうちに、自然に、教会の暦、信仰の暦が生活の中で身についていく。このことは、目的をもってそうしたわけではなく、やってみてた結果気がついたことである。
 日本人の信徒は、牧師が思うよりももっと平気で初詣に行ったりしている。教会の暦によって聖書の信仰に基づく生活へと導くことが大切だ。
(西原明、p.79あたり)


決まった席に座る「奉仕」
 「わたしには何も奉仕ができません」と言う人がいる。わたしは、「それだったら、教会の礼拝で座る席を決めなさい」と言うようにしている。決めた席に必ず座るためには、礼拝開始の十五分前、二十分前に来なくてはならない。「その場所に座るために、必ず礼拝前に来て、十分、二十分の間じっと座って確保しなさい。そうしたら、『あの人は、きょうはちゃんと来ている』とわかる。それも奉仕だから。」
 あるいは、もしわたしが行かなかったら、教会のあの席が空席になるという責任。そのような奉仕ならできるだろう。
(石井錦一、p.106あたり)


最前列に座る恵み
 ある役員は、いつも礼拝堂の一番後ろにいて、きょうは誰が来ている、もうそろそろあの人が来るのではないか、と案じていた。ところが、そんなことをしていたら礼拝の間気が散って、説教を聞くのも疎かになってしまう。
 そこで彼はあるとき決心した。一番前の席に座ることにした。そして絶対後ろを見ないで礼拝した。礼拝が終わってからはじめて後ろを見て、「ああ、あの人が来てくれた。この人も来てくれた」と感謝に溢れるようになった。
(石井錦一、p.106-107あたり)


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