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現代日本の危機とキリスト教(2) [読書メモ]

日本基督教団救援対策本部編、『現代日本の危機とキリスト教――東日本大震災緊急シンポジウム 東日本大震災を通して問われたこと』、日本基督教団出版局、2011、183頁、1995円。
(売り上げの一部は東日本大震災救援募金に献げられるとのこと)

読書メモ(そのままの引用ではなく、わたしなりの言い換えだったり、読んで得た黙想だったり)

(続き)

<神学者の視点から>
災いに遭った時、その時に初めて、わたしたちはこの世の不条理を思い、世界はこのままでよい世界ではなく、救われなければならない存在だということを知る。普段の世界の破れ目は隠されている。(p.57)

人間は、世界を「神のぶどう園」としてよく世話するように、神から委託を受けている。(p.59)

ヨブ記の中心主題は、苦難の意味づけではなく、いかにして苦難の経験を通して生ける神との交わりを得、救いに至るかである。ヨブにとって必要なことは、直接神にまみえることだ。(p.61)

わたしたち人間は神を軽視しており、この世界は自分に都合のよい神しか求めていない。苦難の現実はわたしたちにそのことを気づかせてくれる。わたしたちは、メシアを待ち望む救済待望的な世界に生きており、それ故に、高ぶる心を静めて、主の名を呼び始めなければならない(詩編46:10口語訳、50:15口語訳)(p.63)

この方は、自ら悲しみの人になられた。それは、人の目から涙がことごとくぬぐい取られて(黙示21:4)生きとし生けるものが神との愛の交わりの中で永遠の命の喜びを楽しみ祝う神の良き支配の開始を告げて、悲しむ人に真っ先に救いをもたらすためであった。(pp.64~65)

信仰を問わずに万人救済説を唱えることは聖書から外れますが、逆にまた、陰府にまで宣教するキリストの救いの業がわたしたちの見方を超えてはるかに大きいことを記した聖書箇所(一ペト3:18~19)を読み飛ばすこともできない。未信者のままでなくなった者たちの行く末を、キリストの絶大なる恩寵に委ねるという祈りは、キリストの恩寵を減じるものではなく、むしろそれを称揚するものだ。(p.69)

神はわたしたちを、滅びの歴史ではなく救いの歴史の中に招き入れ、さらに多くの者が参与するのを待っておられる。その三位一体なる神の歴史の中で苦難の意味づけをすることには、意味がある。苦難は神関係を純化し、かつこれを濃密化する(芳賀力『自然、歴史そして神議論』)。(p.72)

御子は、神の中にあって他者になりきることの人格(位格)的原理である。聖霊は、離れている他者と結び合い。合一化する人格(位格)的原理である。神は、ご自身の中に他者性と合一性を持っておられる。他者のためにキリストがそうするのであれば、わたしたちも行って、聖霊の助けのもとでそれをする。これがキリスト者の行動原理である。それを得るには、神の憐れみの業を今も想起させる礼拝に与って、共に祈るほかない。復興支援は礼拝から始まる。(pp.77~78)

<教会・牧師の視点から>
これでも神はいると言えるのか。いや、そうではなくて、むしろ、問われているのはわたしたちの方だ。わたしたちが「神はいるのか」と問うのではなく、神がわたしたちを問うておられる。(p.112)

大学で「先生って、神さまの声が聞こえるんですか」と聞く学生がいる。神さまの声は<問い>として聞こえてくる。いろいろなものを選んでいくときに、「この選びと、あの選び、あなたはいったいどちらを選ぶのか」という問いとして、神の声はわたしたちに聞こえてくる。(pp.112~113)

日本の教育基本法は、「人格は個人の持ち物である」と考えている。それで、教育の目標は「人格の完成である」ということになる。しかし、人格は個人の持ち物ではなく、「神との関係の中に立ち上がってくる応答性」である。キリスト教教育は、神との応答関係の中で責任の主体として生きること、そこに初めて人格というものが立つのだということを第一に教える。(pp.146~148)

あの人々の死は、犠牲であった。神以外のものを神として生きてきたわたしたちの罪の結果を、局所的に担わされることによって犠牲となられたのだ。(p.152)

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