教会学校の分級 [教会]
教会学校の分級について
1.まず、従来からの「礼拝と分級の二本立て」で続けるか、それとも一本化するか。
タイプ1: 約1時間を歌ったり踊ったりして楽しく過ごす礼拝という形もあるだろう。礼拝の中で、ゲームをしたり、御言葉を覚えたり。
タイプ2: あるいは、従来どおり、まず礼拝をささげて、それから、いくつかのクラスに分かれてもいいし(それが本来の「分級」だろうが)、別に分かれなくても、自由な内容で後半を過ごす。
2.分級を行う場合、大きく分けて次の二通りの考え方がある。
タイプA: 礼拝と関連させた内容にする。礼拝での聖書箇所に関する聖句暗唱、紙芝居、お絵かき、クイズ、御言葉から発想を得た遊び、説教をもとにした自由な語らいなどなど。。。
タイプB: 礼拝と関連しない内容にする。お誕生会、作品製作、ページェントの練習、ゲームなどなど。
もちろん、タイプAとタイプBが混在していてよい。どちらでもよい。
3.教会でしかできないこと
自由な遊びは教会でないところでもできる。しかし、聖書の価値観を知り、キリストの救いへと子どもたちを導くのは、教会でしかできない。そして、教会がそれをしなければ、決して子どもたちは福音へ導かれない。・・・このようにかつてから言われてきたし、これからもこのことを忘れてはならないだろう。
その点で、無理に現代の子どもや若者に迎合する必要はない。かえって、聖書のお話、聖書の世界観、人生観、歴史観は子どもたちに新鮮であったりする。また、教会学校教師や大人が「難しい」と思っていても、子どもは難しくとらえていない。
実に、教会学校教師が自分自身を生かしてくださっている御言葉を真剣に語れば、つたない表現であっても、それこそが多感な青少年の心に響くのではないだろうか。教会学校の生徒の一人ひとりが意識していなくても、彼らにとって、また、すべての人にとって必要なものは、ただイエス・キリストの御言葉だけである。教会学校教師が常にこのことを確認しながら、CS教師という委ねられた恵みの務めのために仕え続けることが大切である。
4.学びか遊びか
しかしながら、以前は教会でないところで経験できた自由な遊びや友だちどおしの関わり合いが、今は、塾だ、習い事だ、子どもだけで遊びに行くのは危険だといったことで、できなくなっているのも実状である。
昔は近所のいろいろな年齢の子どもたちがみんな集まって公園で走り回っていた。今は、異なる学年の子どもたちが集まった遊びを教会ではじめて経験する子もいる。その意味で、教会の役割は広がっている。
結局、学びか遊びかという二者択一で考えるのはふさわしくないということか。学びも遊びも、両方だ。学びながら遊び、遊びながら学ぶ。教会学校が子どもたちに提供できるものはまことに様々である。
1.まず、従来からの「礼拝と分級の二本立て」で続けるか、それとも一本化するか。
タイプ1: 約1時間を歌ったり踊ったりして楽しく過ごす礼拝という形もあるだろう。礼拝の中で、ゲームをしたり、御言葉を覚えたり。
タイプ2: あるいは、従来どおり、まず礼拝をささげて、それから、いくつかのクラスに分かれてもいいし(それが本来の「分級」だろうが)、別に分かれなくても、自由な内容で後半を過ごす。
2.分級を行う場合、大きく分けて次の二通りの考え方がある。
タイプA: 礼拝と関連させた内容にする。礼拝での聖書箇所に関する聖句暗唱、紙芝居、お絵かき、クイズ、御言葉から発想を得た遊び、説教をもとにした自由な語らいなどなど。。。
タイプB: 礼拝と関連しない内容にする。お誕生会、作品製作、ページェントの練習、ゲームなどなど。
もちろん、タイプAとタイプBが混在していてよい。どちらでもよい。
3.教会でしかできないこと
自由な遊びは教会でないところでもできる。しかし、聖書の価値観を知り、キリストの救いへと子どもたちを導くのは、教会でしかできない。そして、教会がそれをしなければ、決して子どもたちは福音へ導かれない。・・・このようにかつてから言われてきたし、これからもこのことを忘れてはならないだろう。
その点で、無理に現代の子どもや若者に迎合する必要はない。かえって、聖書のお話、聖書の世界観、人生観、歴史観は子どもたちに新鮮であったりする。また、教会学校教師や大人が「難しい」と思っていても、子どもは難しくとらえていない。
実に、教会学校教師が自分自身を生かしてくださっている御言葉を真剣に語れば、つたない表現であっても、それこそが多感な青少年の心に響くのではないだろうか。教会学校の生徒の一人ひとりが意識していなくても、彼らにとって、また、すべての人にとって必要なものは、ただイエス・キリストの御言葉だけである。教会学校教師が常にこのことを確認しながら、CS教師という委ねられた恵みの務めのために仕え続けることが大切である。
4.学びか遊びか
しかしながら、以前は教会でないところで経験できた自由な遊びや友だちどおしの関わり合いが、今は、塾だ、習い事だ、子どもだけで遊びに行くのは危険だといったことで、できなくなっているのも実状である。
昔は近所のいろいろな年齢の子どもたちがみんな集まって公園で走り回っていた。今は、異なる学年の子どもたちが集まった遊びを教会ではじめて経験する子もいる。その意味で、教会の役割は広がっている。
結局、学びか遊びかという二者択一で考えるのはふさわしくないということか。学びも遊びも、両方だ。学びながら遊び、遊びながら学ぶ。教会学校が子どもたちに提供できるものはまことに様々である。
2011-08-11 09:50
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