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アガパオーとフィレオー [聖書と釈義]

――ヨハネ21章15~19節――


対話1
イエス「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛している(アガパオー)か。」
ペトロ「はい、主よ、わたしがあなたを愛している(フィレオー)ことは、あなたがご存じです。」
イエス「わたしの小羊を飼いなさい。」

対話2
イエス「ヨハネの子シモン、わたしを愛している(アガパオー)か。」
ペトロ「はい、主よ、わたしがあなたを愛している(フィレオー)ことは、あなたがご存じです。」
イエス「わたしの羊の世話をしなさい。」

対話3
イエス「ヨハネの子シモン、わたしを愛している(フィレオー)か。」
ペトロ「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛している(フィレオー)ことを、あなたはよく知っておられます。」
イエス「わたしの羊を飼いなさい。・・・」

 アガペーは、フィリアよりもより深い愛だとか、より高尚な愛だというような説明がよくなされる。たしかに聖書全体を見れば、そういう違いはある(たとえば、W.バークレー著、滝沢陽一訳、『新約聖書ギリシア語精解』、日本基督教団出版局、1970年。新版が出ているらしい)。

 それで、ヨハネ福音書のこの場面でも、「日本語ではペトロもイエスも『愛している』となっているけれど、聖書の原語では違う単語が使われていて、意味が違っている・・・」などとよく説明される。しかし、ほんとうか?

(1)主イエスは、ご自身の方はアガパオーを使っているのにペトロは常にフィレオーを使っていることに、気がついている。その証拠に、三回目にはペトロの表現に歩み寄って、フィレオーを使って尋ねている。しかしこのことから逆に、アガパオーとフィレオーの違いがこの場面で重要なのではないことがわかる。

(2)もしフィレオーとアガパオーの相違がここで最も重要なことであって、主イエスをアガパオーすることが求められるならば、ペトロがフィレオーで答えた時、主イエスはアガパオーを使って「わたしを愛しなさい」と結んだであろう。

(3)しかし、そうはなっていない。主イエスが三度の対話で三度とも結ばれたのは、「わたしの羊を飼いなさい」ということである。しかも、少しずつ言葉の組み合わせが変えられて(「小羊」と「羊」、「世話をしなさい」と「飼いなさい」)、印象深く語られている。したがって、この場面で最も重要なことは、「わたしの羊を飼いなさい」ということである。

(4)少なくともヨハネ福音書では、フィレオーも父なる神の愛や主イエスの愛に用いられている。
  ① 5:20「父は子を愛して(フィレオー)、ご自分のなさることをすべて子に示される・・・。」
 御子への御父の愛としてフィレオーが使われている。
  ② 16:27「父御自身が、あなたがたを愛しておられる(フィレオー)のである。あなたがたが、わたしを愛し(フィレオー)、わたしが神のもとから出てきたことを信じたからである。」
 御父の「あなたがた」への愛と、「あなたがた」の主イエスへの愛と、どちらにも「フィレオー」が使われている。
  ③ 20:2「・・・イエスが愛しておられた(フィレオー)もう一人の弟子・・・」
 イエスの弟子への愛がフィレオーで記されている。

結 論

 というわけで、
結論1 ヨハネ21:15~19の説教でアガパオーとフィレオーの違いを強調するのはやめましょう。
結論2 中途半端な釈義や生半可な知識に頼って聖書を解説するのは慎みましょう。聖書そのものをじっくり読み、聖書そのものをよく調べましょう。
結論3 そういうわけで、翻訳においても、岩波訳のようにわざわざ「ほれこんでいる」などとする必要はないでしょう。
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