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自然災害の意味(8) [信仰]

(8)なぜ自分ではないのか

 なぜ自分ではなくあの人たちなのかと問うことがあるかもしれません。しかし、彼らが特別罪深かったわけではありませんし、逆に、わたしたちが賢かったわけでもありません。そこに理由はありません。

 自然災害に遭うのは、だれであってもおかしくありません。地震や津波で持ち物のすべてを失ってしまったのは、自分だったかもしれません。このわたしであっても何もおかしくないことです。ただ住んでいたところが違うだけです。
 すると、なぜあの人たちなのかと問うことはふさわしくないでしょう。そうではなくて、自分だったかもしれないと思うことが大切です。そして、このわたしが受けても何らおかしくない苦難を、彼らが代わりに受けたと受け取ることも許されるでしょう。

 ここから、キリストの代償を思うことはできないでしょうか。このわたしの代わりに彼らが苦難を受けてくださったことは、キリストの身代わりの贖罪を指し示していると受け止めることができます。キリストがわたしたちの罪を担ってくださったように、彼らはわたしたちの代わりに苦難を担ってくださっています。キレネ人シモンのように(マルコ15:21)。

 それゆえ、わたしたちは、新聞やテレビで報道される被災地の惨状や避難所生活の困窮を見て、それで終わりではなく、彼らのところにキリストが共におられるのを見ます。そのキリストは、わたしたちの身代わりに罪を担い、あらゆる苦難に勝利された復活のキリストです。そこからわたしたちは、罪を赦してくだっている勝利のキリストがわたしたちにも共にいてくださることをあらためて知ります。
 ボランティアに駆けつける勇気もなく、被災地の人々に寄り添う力もないわたしたちですが、そうしてこそわたしたちは、わたしたちなりにこの出来事を主体的に受け止めて、自分を納得させ安心させることができるでしょう。
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