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教会の隣人とはだれか?(2) [教会と社会]

  「教会の隣人とはだれか?(1)」の続き


6.ついでながら、だれを隣人とするかは人から強制されることではない。たとえば、自分が部落差別問題に関わっているとか、性同一性障害の方々の問題に関わっていても、他の人に対して参加すべき・関わるべきとは言えない。自分が関心を持っている活動に他の人を誘うときは、「よろしかったらどうぞ」ということができるだけであろう。誘った相手が断っても、嘆くことはない。わたしたちは、それぞれ自分がコミットできるところに関わっていく。

7.教会として特定の社会的な問題に関わっていくことも可能だろう。その際、教会員の理解を広く求めるとしても、教会の方針として決定したからといって、教会員全員に何らかの負担を求めることはすべきでない。その活動に関わらない人がいても、それは何ら問題ではない。むしろ、教会の中に反対する人がいたならば、無理に推し進めないことである。こうすることが正しいと自分が思っていても、それを他の人に押しつけてはならないからである。

8.こういうことを言うと、「誰かがすればいい」と思って問題から逃げているという批判を受ける。しかしわたしたちは、関わりから逃げるというのではなく、特定の事柄としか関われないのである。わたしたちは、そのような中途半端な存在であり、結局、罪深い存在でしかない。そして、罪深い者がなす業もまた、罪深い。そのことをわきまえて、決して正義を振りかざすことなく、関われるところで関わっていくのである。
 したがって、関われるところでしか関われないとは、消極的に仕方なくなされることではなく、わたしたち人間の限界をわきまえるということであって、その限界の中で誠実に関わっていくことが、わたしたちのできることであり、なすべきことである。

9.よきサマリア人は、追いはぎにあった人を見て、憐れに思って、介抱した。隣人愛を実践することが社会的・道徳的な善であるからそうしたのではなく、キリスト者としてなすべき務めだからそうしたのでもない。憐れに思ってそうしたのである。他者の困窮を憐れに思う心がなければならない。
 しかし、そのような心は、他の人から持てと言われて持てるようなものではない。それどころか、私たちの心の現実は、人の不幸は自分の幸せであったり、後々のことを考えると面倒で関わりたくないというように自己中心的である。「誰の隣人になるか」と問われたところで、わたしたちは誰の隣人にもなりえないのが真実のところである。「あなたの隣り人を愛せよ」という言葉は、わたしたちにとってそのとおりにすることが不可能な戒めである。

10.そのように、ほんとうのところで憐れみの心を持てないわたしたちのために、主イエスは十字架にかかってくださった。憐れみの心に欠け、自己中心に覆われているわたしたちを見て、主は憐れに思い、自分の命を差し出してくださった。主が、わたしたちの隣人になってくださったのである。


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