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教会の隣人とはだれか?(1) [教会と社会]

1.『クリスチャン情報ブック2011』のためのアンケートの結果が発表された。クリスチャン新聞2010年9月5日号(通巻2081号)。
 そのアンケートの中に、「教会の隣人とはだれか?」という設問があり、43.0%の教会が「教会に関わるすべての人」という主旨の回答をしていたようだ。

2.ルカによる福音書10:25~37によれば、「わたしの隣人とはだれですか」と主イエスに問うたのは、律法の専門家である。彼は、自分を正当化してそう言った。
 それに対し、主イエスは、いわゆる「よきサマリアびと」のたとえを話し、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われた。

3.自分にとって誰が隣人であるかを明らかにすることではなく、隣人になることが大切である。つまり、誰がわたしの隣人だろうかと他者に問うのではなく、自分は誰の隣人になるかを自らに問わなければならない。
 その意味で、自らに関わるすべての人が自分の隣人になりうることは当然である。すると、「教会に関わるすべての人」が隣人だいう主旨に答えた教会が43%しかなく、そうでない教会が57%もあるのは驚きである。キリスト教会でありながらそんなことはないだろうと思うので、はたして、設問の仕方は適切であったか。

4.そもそも、「隣人とは誰か」と問うたのは主イエスの前で自分を正当化しようとしていた律法の専門家である。「教会の隣人とはだれか?」という問い方は、これと同じではないだろうか。アンケートとして問うとすれば、「あなたの教会は現在だれの隣人になっていますか?」であろうか。広く一般的に「教会は」ではなく「あなたの教会は」と問い、「現在」と今のことを問うのがよい。というのも、だれの隣人になっているかは教会によって異なり、一つの教会でもその時々によって異なるからである。

5.すべての人が自分の隣人になりうる。しかし、現実的に、すべての人を自分の隣人とすることは不可能である。社会的な問題で考えると、子育てのストレスを抱えた人、夫婦関係に問題を抱えた人、独居老人、引きこもり、不登校、自殺、DV、ホームレス、アルコール依存、薬物中毒、派遣切り、在日外国人などなど、様々問題を抱えた、あるいは、不当に担わされた人々がいる。わたしたちは、自分が関われる範囲でしか関われない。あるいは、関わらざるを得なくなった人と関わっていく。主イエスのたとえの中のサマリア人のように、そこを通りかからなければ関わりようがない。
 その意味で、諸教会が、それぞれの置かれたところで、どういう人たちの隣人になっているかを調査することは、それなりに意義のあることであろう。

  →「教会の隣人とはだれか?(2)」へ


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